令和4年6月22日、司馬遼太郎原作「峠」の映画を観賞して来ました。

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 本日のコーヒーは、「ボリビア インカ アレグレ」です。
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 どうぞ、ごゆっくりお過ごし下さい。

6月22日、つくばの映画館で前評判の良い「峠」を観賞して来ました。
 司馬さんは、あとがきで「峠」において、「侍」とはなにかということを
 考えてみたかったと認めています。

主人公:越後長岡藩軍事総督 河井継之助

 慶応3年(1867年)10月、十五代将軍徳川慶喜公は、朝廷に大政奉還し徳川幕府は終焉しました。
 大義を通して徳川家に与するか、倒幕を企てた薩長方に与するか、国論を二分した混乱は極に達し、翌慶応4年1月(1868年)、京地に於いて戊辰の役が勃発しました。
 北國の越後長岡藩内で、文武両道を兼ね備え、英傑の誉れ高い河井継之助は、藩主牧野忠訓から、厚い信認を得て軍事総督を拝命し、もつれた藩論を武装中立論にまとめ、北陸道を進軍して来た西軍と小千谷の慈眼寺で会談しました。

 河井継之助は、戦火から長岡藩を守る為、平和裡に話し合いを行おうとしましたが、西軍の傍若無人な言語、振る舞い、不遜な態度、また、藩主や領民への過酷な兵站、金品の強要に不満を募らせ、これを拒否し会談は決裂。
 慶応4年(1868年)5月、遂に北越戦争の戦端が開かれました。

 戦いは、長岡城をめぐる激しい争奪戦で、両軍は多大な損害を出しながら数度に亘りました。
 河井継之助も前線に出て陣頭指揮を執りましたが、火力、兵力の劣勢は如何ともし難く、善戦むなしく次第に敗色濃厚となり、7月25日、長岡城は落城しました。継之助自身も左足に銃弾を受け、戦闘不能となり、会津、桑名、庄内等の藩兵と共に、捲土重来を期し、友藩の会津に向かいます。
 会津への街道は悪路。とくに途中にある、「八十里峠越え」は大変な難所で、困難を極め、戸板や駕籠に乗り移動する、継之助の創傷は出血も止まらず、悪化が進みました。どうにか難所を越え8月5日、会津領の只見村番所に到着、しばし、休息してから、宿所に入りました。
 会津藩に滞在中の医師松本良順は、先代老公より河井継之助の急を聞いて治療の為、9日、自ら馬を走らせ手当てしますが、最早手後れとみて、従者に包帯の交換などを指導し、その晩は、継之助と大いに語り、談笑し別れます。

 さすがの越後の英傑、河井継之助も死期を悟り、辞世の一句を遺しました。 「八十里 腰抜け武士の 越す峠」

 8月15日、死期が迫った継之助は、従者に今後の事を指図し、静かに床に入った由。翌8月16日の午後、ひとしきり談笑した後、「ひと眠りしたい」と言って、目を閉じると、そのまま昏睡状態となり、夜8時頃、永眠しました。と伝えられています。 享年42歳。    

 まさに「巨星 墜つ!」

 映画の画面は、往時の情景を追うように、とうとうと流れる母なる信濃川、越後平野を包み込むように、そびえる父なる越後の山々を映しながらエンディング。
 かつて、ある人は、長きに亘る戦乱で荒廃した故郷に入り、思いを漢詩に認めました。

 「國 破れて 山河あり 
      城 春にして 草木深し・・・
」 と。 嗚呼!

 大義を守り、國を想い、家族を愛し、平和の日々を願って、命を懸けた河井継之助、これからも忘れない!

 映画制作に、上映に携われた関係者の皆様、本日は、感動的な映画を観賞させていただき有り難う御座いました。

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