四館共同企画 「幕末動乱ー開国から攘夷へー」 壬生町立歴史民俗資料館へ見学に行きました。

 9月7日(日)、壬生町立歴史民俗資料館にて開催されております、四館共同企画 「幕末動乱ー開国より攘夷へー」(9月15日(月、祝)まで)を見学して参りました。会場は水濠に囲まれた、静かで広々とした壬生城址公園内にあり、多くの来館者でにぎわっていました。

 資料館には、江戸幕末期の壬生藩の動向を知ることが出来る多くの資料が展示されており、特に水戸天狗党との関わり、藩政改革、教育学問の奨励、西洋医学・砲術の導入、殖産事業の推進など進取の気性に富んだ藩の実情を知る事が出来、大変勉強になりました。

 ここで、少し下野国壬生藩(現在の栃木市、壬生町周辺)について記しておきます。

 壬生藩は、石高3万石、関東譜代大名の一つで、歴代の藩主は学問と武芸の教育、殖産事業などに力を入れてきました。正徳2年(1712)、藩主鳥居忠英も入封早々、人材育成のため藩校の「学習館」を設立し、藩をあげて文武両道に励み、藩政の基礎を築きました。

 壬生城本丸は、将軍の日光東照宮参拝の折、帰路の宿城であり、また、毎年朝廷より日光東照宮の祭礼に派遣される奉幣勅使の通る例幣使街道との合流地で、きわめて重要な要衝でした。穏やかで安定した藩政を心掛けた歴代藩主の多くは、老中、側用人、若年寄など、幕府の要職にも就きました。

 学問では、とくに西洋医学の導入につとめ、藩士の多くが蘭方医学の研究に励みました。ちなみに、胃腸薬で有名な大田胃散の初代社長大田氏も壬生藩出身との由。

また、いちはやく西洋砲術を導入した藩であり、高島秋帆について多くの藩士が砲術の他、大砲の製造、弾薬の製作を学び、外敵に備えておりました。

 武芸については、江戸の神道無念流練兵館道場 斎藤弥九郎等とも多くの藩士が交わりを深め、剣術のほか兵学や儒学の講義を受ており、長州の高杉晋作なども江戸下向のおり、わざわざ壬生藩まで足を延ばして、試合をしたとの事です。

 穏やかだった壬生藩も、幕末の嘉永6年(1853)6月、ペリー艦隊の江戸湾進入によって、尊王攘夷をめぐり藩論が二つにわれました。元治元年(1864)、水戸天狗党の乱がおこり壬生藩は幕命により出兵、鎮圧に成功し藩論も親徳川で落ち着きましたが、慶応4年(1868)1月、戊辰戦争が始まり、幕府軍の不利が次第にあきらかになるにつれ、壬生藩も西軍に与する事に決しました。
 4月の宇都宮城争奪戦に壬生藩は西軍の先方隊として、土方歳三、大鳥圭介率いる幕府軍と壬生の姿川を挟んで数度の戦をしました。
 壬生から宇都宮に通ずる栃木街道沿いには今も、西軍の本陣だった名主邸や、幕府軍「戊辰役、戦死の墓」の石碑があり、また、西川田の「光音寺」様の墓地には幕府軍の無縁塔がまつられています。

 古里から遠く離れたこの地で、徳川に殉じた幕府軍の勇猛果敢な戦士の霊に静かに頭をたれ、ご冥福を祈られずにはいられませんでした。 

 壬生藩及び石碑などについての記述は、茨城県結城市に在住の新選組研究で活躍されている 坪野谷 敬志氏よりいただいた資料や栃木街道の地図を参考にしました。
 お陰さまにて壬生について大変勉強になりました。この場をかりて心からお礼申し上げます。これからも益々のご活躍をお祈りしております。有難う御座いました。

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